| 地図番号 |
所在地 |
名称 |
人/文物 |
| 東部 20 |
大桐 1-17-43 |
大澤寺 |
1646年正保3 宗純の開基 |
| 東部 5 |
大道南 3-2-2 |
大宮 |
532年頃安閑天皇がこの地で放牧場を設けた。天皇を祭神とする
大宮の森として大木群がありランドマークとなる |
| 東部 27 |
豊新 2 |
豊新けやき通 |
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| 東部 26 |
豊里 3 |
平田の渡し跡碑 |
淀川最後の渡し1676年延宝4から1970年昭和45
源八渡し北区と都島区の間 |
| 東部 12 |
豊里 6-14-25 |
定専坊
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横玉山 定専坊(浄土真宗) 豊里6丁目14-25 蓮如上人遺跡 <門前の碑>左・三番村定専坊 楠二郎左衛門尉正勝の墓
三番叟・三番村 豊里1〜3 豊里三番の古名上小竹葉野・あけおささの
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| 東部 25 |
豊新 4-10 |
はなやぎの道・こぶし通 |
中島大水道は昭和40年代に消えてしまいます。道路になったり下水道になっています。 |
| 東部 14 |
菅原 2-3-27 |
菅原天満宮 |
菅原道真・飛梅伝説「牛まわし碑」 |
| 東部 30 |
下新庄 5-19-12 |
明教寺・城地山 |
親鸞石枕木像十三代住職善亮は、号を西涯 |
| 中部 31 |
淡路 5-6-21 |
妙道寺 |
2代住職浄龍は、助産婦として功績大阪府ナイチンゲール賞を受ける |
| 中部 24 |
西淡路 5-1 |
中島大水道顕彰碑 |
東は西成郡増島村(東淀川区淡路)から西は申新田(此花区伝法)まで、95kmの大排水路。淡路本町商店街を抜けて、新幹線沿いに東へ行けばスグ見えます。昭和40年代消滅。下水道や立派な道路となる。中島大水道は、今どこに  |
| 中部 13 |
西淡路 4-17 |
須賀の森公園 |
須賀神社跡、府天然記念樹齢600年の楠1336年湊川合戦で討死した楠正成・正行の家来が冥福の植樹 |
| 中部 2 |
淡路 1-14-21 |
永春寺 |
来一族の居住跡
来国長 来国次菩提寺 永春寺
上田秋成奉納の燈籠名刀「正宗」の鍛冶集団=国次町西淡路一帯は、国次は名刀正宗の刀匠の弟子、来国次一族が住む。 |
| 西部 19 |
東中島 5-27-44 |
崇禅寺 |
七代将軍足利義勝が殺された父義教の菩提寺として細川持賢に命じ創建した
伝香林院細川玉子之墓、崇禅寺馬場の返り討ち、
旧東淀川区の霊3496柱の慰霊碑
伝香林院細川玉子之墓=細川ガラシャ
崇禅寺に墓、「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」
細川忠興の妻、明智光秀の娘
お茶の生産地、日本最古の茶年貢目録、凌松亭、七五三庭園、喫茶去=茶道碑
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| 西部 23 |
東中島 4-9-41 |
中島惣社 |
651年白雉2年孝徳天皇が五穀豊穣を祈願に創建長柄豊碕宮
惣社は、総社中島郷48カ村の親宮、芭蕉の碑宮人よわが名を散らせ落葉川 はせを
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| 西部 9 |
柴島 3-7-30 |
柴島神社 |
1232年貞永元年九月難波一帯が大洪水、白馬にまたがり鹿を連れ、3人の老翁が現れ・・・神社を祀る
柴島晒・名産の碑
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| 西部 28 |
柴島 2-12-28 |
法華寺
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聖武天皇御開創曹洞宗法華寺
国分尼寺、法華滅罪之寺 爪引地蔵「見返地蔵」1914年(大正3)浄水場より移転
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| 西部 8 |
柴島 1-3-14 |
柴島浄水場 |
法華寺移転し浄水場  |
| 西部 22 |
東中島 1-5-5 |
徳蔵寺 |
楠木正成の首塚という五輪塔 |
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三宝寺村 |
三宝寺は、七堂伽藍の大寺院、乳牛牧庄三宝寺村にあった。大隅1丁目辺り、今大阪経済大学とその南 |
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かぶと公園・かぶと道 |
菅原1〜7三島江屋太郎兵衛開発・新家村、二重新家村
かぶと道 1979年昭和54開設
源平の戦に破れた平家の落武者平影清が、かくまってくれた伯父の三宝寺大日坊能忍を誤って殺害したのを悩んで、このあたりで兜を脱ぎ捨てて立ち去ったと言い伝えられています。今この付近から淀川堤防までの一帯の地を「かぶと」と称し「かぶと道」の名も残っています。
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三番叟・三番村 |
豊里1〜3 豊里三番の古名上小竹葉野・あけおささの |
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崇禅寺あたり |
お茶の生産地、日本最古の茶年貢目録、凌松亭、七五三庭園、喫茶去=茶道碑 |
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摂津・豊碕県庁所在地跡碑 |
摂津県:東成・西成・島上・島下・豊島・能勢等を管轄・明治2年1月、豊碕県5月改称8月消滅 |
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国分寺
金光明四天王護国寺 |
東淀川区柴島町、国分、国分尼寺を741年全国に建立を発願した。(聖武天皇(701〜756) |
| 東部 3 |
南江口 3-13-23 |
江口君堂・寂光寺 |
西行と妙、紀貫之、観阿弥の江口、常磐津塚
難波江口、大川尻
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| 東部 10 |
小松 2-12 |
小松公園・涙池跡 |
悪七涙池伝説、豪傑悪七兵衛影清の物語発祥の地
源平合戦屋島の「しころ引」事件
悪七兵衛景清・歌舞伎に登場
宮崎県宮崎市生目・生目神社・景清を祭神とする・眼病に霊験あり。源頼朝への怨念と恩義の挟間で苦悩した平家の悪七兵衛影清が、自らの両眼をくりぬいて清水の観音様に納めたという。 |
| 東部 29 |
小松 4-15-36 |
松山神社 |
901年延喜元年菅原道真没後村人がお祀りする
小松村天神縁起大隅神社に合祀の後昭和19年復帰し小松の氏神となる
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| 東部 18 |
小松 3-5-15 |
専念寺 |
1643年寛永20 本尊阿弥陀仏・恵心僧都の作 |
| 東部 16 |
小松 3-12-20 |
涙池山・瑞松寺 |
特効薬「狸吸出薬」
楠正成の子孫が創建楠正澄(明道)石山合戦由緒地 |
| 東部 32 |
小松、瑞光2・3 |
ゆずりはの道 |
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| 東部 15 |
瑞光 2-2-2 |
天然山・瑞光寺 |
鯨橋、雪鯨橋、和歌山の太地浦聖徳太子の創建と伝える指月寺僧・天然が白隠禅師を座主にして栄える |
| 東部 1 |
大桐 3-14-56 |
稲生神社・紅梅稲荷 |
いなうじんじゃ平家の落人が農民となり、森林を開墾し田畑をつくる。その村の鎮守。
三宝寺あたり三宝寺村は、今どこ |
| 東部 4 |
大桐 5-14-81 |
大隅神社 |
応神天皇慰霊のために建立
幻の宮・大隅宮=大隅島
牛を難波の大隅嶋と媛島松原に放つ |
| 東部 7 |
大桐 5-15-36 |
教照寺 |
日本書紀安閑天皇532年、牛を難波の大隅嶋と媛島松原に放つ |
| 東部 17 |
大桐 5-1 |
せせらぎの遊歩道
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| 東部 11 |
大桐 5-4-3 |
逆巻地蔵 |
背丈1.6m1846年逆巻きの難所
帆を逆に巻かねば転覆する。海の潮と川の流れがぶつかる海難事故の難所に建つ
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| 東部 21 |
大桐 5-1 |
乳牛牧跡碑(ちうしまき) |
牛乳・蘇・酪醍醐味
乳牛牧の解説を参照>
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「淡路」の地名
901年昌泰4年道真公が流罪の折、あれが古歌で名高い淡路島かね「淡路天満宮」
逆巻地蔵
このお地蔵様は、淀川の水運の難所に、慰霊と安全祈願のために出来た。
「逆巻地蔵」は、1846年(弘化3)今は、川底になった、阪巻村に建立された。
この地は、淀川の流れに海流がぶつかり、難破する舟が続出した。
干潮や満潮に時には、難所の位置が一定ではなかった。
ベテランの船頭は、帆を逆さに張る手際を見せながら乗り切ったものです。、
「逆巻の難所」と言われ、川舟から海へ出る大型船への乗り換え地点でもあった。
今の位置の「逆巻地蔵」
1898年(明治31)淀川改修の時、観仏寺が地蔵を引き取り安置した。
このとき地蔵様の下から犠牲者の戒名を書いた石が80個も出たという。
1923年(大正12)住職の娘さんが「地蔵さん」が、表へ出たいと訴えかける夢を見た。
そこで、現在の位置に移されたと言う。
井高野
「井高野」は、大阪市最北端の町で、東淀川区にあります。
吹田市と摂津市の境に割り込む形で、神崎川と安威川に挟まれた地にあります。
神崎川の流れに掛かる江口橋、西江口橋を北へ渡ると北江口、「井高野」です。
地下鉄今里線・終点「井高野駅」は、この井高野のほぼ中央にあります。
* 安威川は、北摂最大の河川で、源流は京都府亀岡市竜ヶ尾山、茨木、摂津、吹田と流れ、
延長32キロ。東淀川区相川で、神崎川と合流する。
安威川の名前は、茨木市内の安威(藍)の地名から採ったものという。
淀川を迂回する運河
1,100年前頃(8世紀末)神崎川と淀川が運河で結ばれた。
和気清麻呂が開削したと伝えられる。
摂津市一津屋で淀川から分岐し、東淀川区の相川で安威(あい)川と
淀川区で猪名(いな)川と合流した後、分流し大阪湾へと流れ込む。
奈良時代の末期(8世紀末)、和気清麻呂の手で、三国川(当時の川の名)と
淀川とを直結させる開削工事を行う。
長岡京や、平安京へ送られる西国からの貢物は、淀川の最下流の
難波津を経ることなく、短い航路で淀川へ入り。しかも、
難所と航行ラッシュを回避できたのでした。
京と結ばれることで、淀川の分岐点・江口、中流の吹田は、港として大いに栄えた。
乳牛牧跡
大桐 5-4 大桐中学校前 広大な牧場があったと。
乳製品の酪・らく(ヨーグルト)、蘇・そ(チーズ)が造られた。
平安時代以降、医薬を取扱う典薬寮の牧場「味原牧・あじふのまき」があり、
摂津市の味原の地から現在の南江口、大桐、大道南の広大な地で、乳牛を飼育していた。
毎年、母牛や子牛を各地の乳牛院に送ることを義務付けられていたのでした。
牧は無くなったが、地名は、近年まで残っていた。
1926年(大正15)改称される以前まで、大隅東、西小学校は「乳牛牧尋常小学校」と称した。
瑞光寺・雪鯨橋 くじら橋
瑞光 2-2-2
聖徳太子の創建と伝える。1643年(寛永20)僧・天然が再興し、
指月寺とし、座主に白隠禅師を迎え、
1729年(享保14)僧・北禅のとき現在の「瑞光寺」となる。
境内の弘済池には、非常に珍しい橋が架かっている。
鯨の骨から出来た「雪鯨橋」。1756年(宝暦6)譚住禅師が、紀州の太地を行脚したとき
不魚に困った魚師のために、祈祷をしたところ豊魚となった。
このお礼にと「30両と鯨骨18本」貰い受けた。
骨は、ねんごろに供養し、生きとし活けるもの、全てのものを大切にするとの願いを込め、
この記念碑に当るモニュメントの「くじら骨橋=雪鯨橋」を作らせたのでした。
今も、太地から架け変えの時、鯨の骨が寄進されます。
現在の橋は、昭和56年架け替えられたもので、18代目に当ります。
影清
遠い昔、平家の悪七兵衛影清は、源頼朝への怨念と恩義の挟間で苦悩した。
自らの両眼をえぐり清水の観音様(京都市清水寺)に納めたという。
その伝説を織り込んだ人情話の舞台。
人々は、信心を究極最善よりどころとしたそんな時代。
祈れば願いは叶う、救われる。
小松公園・涙池跡 悪七涙池伝説、豪傑悪七兵衛影清の物語発祥の地 源平合戦屋島の「しころ引」事件 悪七兵衛景清・歌舞伎に登場