〜キャラクターの「兜」の由来〜
影清物語・発祥の地
○涙池跡・小松公園
○悲嘆の兜を脱ぎ捨て・かぶと公園・かぶと道
○影清・能に!!
○悪七兵衛景清・歌舞伎に登場
かぶと公園・かぶと道< 菅原1〜7>
三島江屋太郎兵衛開発・新家村、二重新家村かぶと道1979年昭和54開設
<かぶと公園>
影清が、大日坊を誤って殺してしまい、嘆き悲しみ走り出します。ここら辺りで、かぶっていた兜を打ち捨てたと言う。
源平の戦に破れ、平家の平影清が落武者となって、東淀川の三宝寺にかくまわれていました。伯父の三宝寺大日坊能忍は、影清の好きな「そばを打って」食べさせよと下男に言いつけます。これを影清は、「自分を打て」と聞き違えてしまいます。カッとなった影清は、伯父の大日坊を殺害してしまったのです。あとで「そばが運ばれてきて」誤りに気づきます。大変です。大声を出しながら、走り回ったと伝えますが、悲嘆にくれながら走り回る影清は、このあたりで兜を脱ぎ捨てて立ち去ったと言い伝えます。今、この付近から淀川堤防までの一帯の地を「かぶと」と称し「かぶと道」の名も残っています。
涙池跡・小松公園
悪七涙池伝説、豪傑悪七兵衛影清の物語発祥の地
源平合戦屋島の「しころ引」事件 悪七兵衛景清・歌舞伎に登場します。平家の「平影清」は、憎たらしいほど強いと豪傑の異名「悪七兵衛」とつけられていました。西行法師の歌に、
「よしさらば 涙の池に身をなして 心のままに 月やどるらん」とあります。
影清・能に!!悪七兵衛景清・歌舞伎に登場
遠い昔、平家の平影清は、悪七兵衛影清と言われ、源頼朝への怨念と恩義の挟間で苦悩した。自らの両眼をえぐり清水の観音様(京都市清水寺)に納めたという。その伝説を織り込んだ人情話の舞台。人々は、信心を究極最善よりどころとしたそんな時代に、祈れば願いは叶う、救われると。
<余聞>景清を祭神とする・生目神社生目神社(宮崎県宮崎市生目)
眼病に霊験ありとされます。源頼朝への怨念と恩義の挟間で苦悩した平家の悪七兵衛影清が、自らの両眼をくりぬいて清水の観音様に納めたという。
松山神社・菅原道真公をお祀りする。<小松 4-15-36>
松山神社は、 901年延喜元年菅原道真没後、村人が道真公をお祀りしていました。小松村天神縁起大隅神社に合祀の後昭和19年復帰し小松の氏神となります。
菅公は、都を追われ大宰府に落ち行くとき、淡路に立ち寄ります。京を出て「淀川を川舟」で下り、瀬戸内に出るために「外洋船に乗り換え」ます。
「逆巻地蔵さん」をわき見しながら、この地を歩いていると、あの有名な「淡路の地名の由来」とされる言葉が発せられるのです。
「あの島影が淡路か?」と供の者にたずねます。
こうして大宰府に到着、そして、悲運の最期を遂げるのです。
「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて 春なわすれそ」
福岡県「太宰府天満宮」には、ゆかりの「飛び梅」が、いまも香ります。また、国立博物館が、最近隣接してつくられました。
瑞光寺・雪鯨橋 くじら橋<瑞光 2-2-2>
聖徳太子の創建と伝えられます。1643年(寛永20)僧・天然が再興し、指月寺とし、座主に白隠禅師を迎え、1729年(享保14)僧・北禅のとき現在の「瑞光寺」となります。
境内の弘済池には、非常に珍しい橋が架かっています。
鯨の骨から出来た「雪鯨橋」
1756年(宝暦6)譚住禅師が、紀州の太地を行脚したとき、不魚に困った魚師のために、祈祷をしたところ豊魚となりました。このお礼にと「30両と鯨骨18本」貰い受けました。骨は、ねんごろに供養し、生きとし活けるもの、全てのものを大切にするとの願いを込めて、この記念碑に当るモニュメントの「くじら骨橋=雪鯨橋」を作らせました。
今も、太地から架け変えの時、鯨の骨が寄進されます。現在の橋は、昭和56年架け替えられたもので、18代目に当ります。